『ステナンの教科書』を発表しました

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おまたせしました。

これまで断片的に発信してきた「ステルスナンパ」(ステナン)についての体系がまとまったのでnoteにて発表させていただきます。

 

恋愛サロン内での講習では2回ですが、のべ50人の方に受講していただき、概ね好評でした。今回はその講習をベースとしたテキスト+おまけとなっております。

内容としては、以下のようになっています。

1)ステナンの定義(間接法ナンパとの違い)

2)ステナンが有効な理由

3)ステナンのマインドセット

4)ステナン式の声掛けと演習問題

5)ステナンからLINEゲットまでの方法論

6)ナンパで使えるトークスクリプト

7)ネットナンパやパーティでも使えるオープナー

8)まとめ

9)シチュエーション別声掛け集(おまけ)

 

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これらは、ステナン講習を受けてくださった方の感想ツイートですが、特徴として今日から、今から早速使える内容となっています。「ナンパの考え方が大きく変わった」という感想もたくさんいただいていますので、ぜひ「ナンパに挑戦したいけど勇気が出ない」「ナンパしてみたけどうまく行かなかった」ような方々にお読みいただければと思います。

 

note.mu

 

以下は、ステナンの教科書を購入して頂いた方の感想の一部です。

 

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声掛けのテクニックというよりは、根本的なマインドチェンジを提案する内容になっていると思います。

(即系の女の子を街で引っ掛けて、ワンナイトでやっちゃいたい。とりあえず数をこなしたい、みたいな方には向いていないと思いますので、そういう方は読まなくて大丈夫ですよ)

ということで、日常の中で素敵な女性を見かけるなぁと日々思っている方にはぜひ読んでほしい内容となっています!

【備忘録】確定申告をやってきた

もともと副業はちょびちょびとやっていたので、
確定申告はここ数年継続してやっていました。

 

2016年はnoteやらサロンやらといった新規副業ががっつり入ったので、
確定申告も少し気合を入れてやりました。

 

副業ラボで、「絶対青色申告がいい!」「freeeを使わないなんて今時バカ」などと
悠斗さんやアランさんからアドバイスを受けながら、年明けからいろいろ準備していくと一瞬で終わりました。

 いくつかポイントが会ったので来年の自分への備忘録的にまとめて置きます。

 

●サラリーマンで確定申告しなければならない人

・収入金額が2000万円を超える人

・1ヶ所から給与をもらっている人でその他の所得が20万円を超える人

・2ヶ所以上から給与などをもらっていえサブの給与やその他所得が20万円を超える人。

源泉徴収されない給与をもらった人

etc

 

 

●20万円以下でも確定申告すべきか?

継続して副業をやっていく意志がある人は、所得が20万円以下でも確定申告はやっといたほうがいいです。というのも今後、20万円を超えてくると、「確定申告未経験者は、このまま申告しなくても大丈夫なのでは?」という邪念が生まれて、結果的に取り返しのつかない事態に発展したり、あるいは税金や経費の理解を欠いたまま事業を展開して、マネーリテラシーを身につける機会を逸してしまう可能性があるからです。なので、勉強だと思って副業を決意した人はぜひ確定申告にチャレンジしてみてください。

会社にバレるとしたら、住民税でバレるので(確定申告の有無にかかわらずバレる)、申告書の「別に納付」に必ずチェックを入れましょう。

詳しいやり方は「マイナンバーで副業が会社にバレるのか」で書いてます。

 

●雑所得と事業所得のちがいは?

税務署に電話して聞きました。名前を名乗らずに聞けるので、このなかから暇そうな税務署を探して電話してみましょう。

結論から言えば、毎月一定額入ってくるものは事業収入にカウントしてくださいとのことでした。で、事業収入の場合は、開業届を出し、同時に青色申告の申請をしましょう。開業届や青色申告書の記入に関してもfreeeを使うと迷いなくできます。

 

●経費の処理は、レシートを保管して、クレジットカードを会計ソフトに登録 

Freeeに副業用のクレジットカードと、副業収入用の口座を登録して、日頃からスキマ時間にポチポチ登録しておきましょう。領収書じゃなくてレシートで十分なので、使ったものの証明はとっておく。言われたときに出せるように最悪月別に袋につっこんでおくとかでも大丈夫です。

 

その他、個人的なメモ

 

ふるさと納税について、給与所得者は確定申告をしなくてもよいワンストップ制度があるが、確定申告する際は、ワンストップ制度は利用せずに確定申告に記載する。

 

・副業用に専用クレジットカードをつくり、freeeと連動させて、月ごとに原価と経費を精算していく。

(参考:経費になる項目)

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ちなみに私が登録しているのは、freeeのこのスタータープランってやつです。

 

 

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個人内におけるナンパの定義の変遷、あるいは「生き続ける」方法

ナンパを始めて1年くらいはひたすら数を追うことが刺激的で楽しかった。

 

あまり口に出したり文字にしたことはないが、
自分の中で数を追うために必要なマインドセットやルールも編み出したりした。

 

それは「心を捨てて、淡々とこなす」ということだ。

 

自らが機械のように、あるいは、相手をモノのように見なすことで、
断られても傷つかないし、感情を入れないことで、関係を継続させなくてもいい。


なにより、数学的、統計的に処理を進めていくので、

判断が正確になり、間違いも少なくなる。
ダメなものはダメ。いけるものはいける。

 

ただ、これをやっていると当たり前だけど、それは自分じゃなくてよくなってくる。
結局、ナンパをやって数をこなしているのはプログラムであって、
自分の中の好奇心や感情ではなくなってくるわけだから。

 

それでも快楽や欲求に従い、ただひたすら続けるか。
意味を求めるためにスタンスを変更するか。

 

私は後者に転向しつつあった。

その意味とは、誰かの役に立つことであった。

自分の快楽のためではなく、誰かの助けとなったり、
必要なものを提供する存在として、
私はナンパするようになった。

 

そこには、
これまで素人の女性とセックスしたことがないという男性がいたり、
彼氏に相手にされてどうしたらいいかわからないという女性がいたりした。

 

私がいることで、その人の時間の価値があがるなら、
喜んでその人の時間に参画する、それが現在の私のナンパである。

 

そのときどきで、自分の価値観の全体を見渡して最善だと思うことをやっていく、
「生き続ける方法」というのは、結局、それくらいのやり方しかないのかもしれない。

恋愛からの離陸。

私は自由であり続けることに

人生の価値を置いている。

 

自由でなければ、

生きる意味がないと考える。


自由であるためには、

3つの要素が必要だ。

肉体的な自由。すなわち健康。

精神的な自由。すなわち知性。

金銭的な自由。すなわち収入。

健康で、知的で、

そこそこの収入がある状態。

私はこれを、

最低限の自由な状態であると考える。

なぜ私がナンパをしているか

というのも、

「自由」に大きく関連している。

残念ながら男に育った瞬間、

「性的な自由」という

問題が付きまとってくる。

「性的な自由」がない状態にあると、

上記の3つの自由さえも、

満足に獲得できなくなってしまうのだ。

 「彼女いない歴=年齢」の男が、

健康で頭が良くて収入があっても、

自由に見えないのはおわかりだろう。

逆に言えば、

いつでも、好きな人と、

交われる状態。

それが実現できれば、

男の煩悩の8割は焼却できたも同然で、

後は、健康と知性と収入のために

邁進すればいい。


だからこそ、私はナンパをしている。

もし、ナンパをしていなければ、

職場の巨乳ゆるふわ女子たちの視線に

翻弄され、

クライアントのクールビューティに

非モテコミットし、

満員電車で密着してくる女子高生の

臀部に手を伸ばしてしまうかも

しれないのだ。


いけない。

これは、いけない。


だから、私はナンパをして、

女性を魅了し、ホテルや自宅において、

性行為をすることによって、

性的な自由を得たと

「錯覚」しているのである。

さて、なぜ「錯覚」なのかと言えば、

ナンパにおいて、

性行為へいたる道筋自体が、

その多くの場合、

演出によってなされるからである。

「●●君のこと、

  よくしらないのにしちゃった」

このセリフは、

非常にファクトの弱いセリフである。

彼女の主観的な認識の上にしか

成立していない。



そう。

性行為へ至る道筋は、

事実を積み重ねていく

コンストラクション(建設)ではなく、

むしろ、あやふやな嘘を塗り重ねていく

ドローイング(描き)である。

ナンパというリアルは、

現実の体をしたアクセシブルな

フィクションなのである。

このねじれ構造を理解し体得すれば、

きっとあなたは

ナンパの理論的な背景を

おさえたことになると思う。

ナンパを上手く行かせたければ、

相手の眼前に相手が気持よく解釈できる

フィクションを作り出せばいい。

そのストーリーテリングこそが

ナンパなのだ。

このスキルを手にした瞬間、

 あなたは恋愛から離陸し、

自由を手に入れる旅へと

羽ばたくことができるだろう。

そして、きっと思うはずだ。


「どうしてみんなあんなに

    恋を楽しそうに語るんだろう」と。

 

少しの羨ましさを胸に抱いて。

 

 

つながる「ウィルパワー」と「嫌われる勇気」と「ZERO to ONE」



この1年間で読んだ書籍が、一つの線でつながった。

 ピーター・ティールの『ゼロ・トゥ・ワン―君はゼロから何を生み出せるか』

新しい何かを作るより、在るものをコピーする方が簡単だ。
おなじみのやり方を繰り返せば、見慣れたものが増える、つまり1がnになる。
だけど、僕たちが新しい何かを生み出すたびに、ゼロは1になる。
人間は天から与えられた分厚いカタログの中から、何を作るかを選ぶわけではない。
むしろ、僕たちは新たなテクノロジーを生み出すことで、世界の姿を描き直す。
それは幼稚園で学ぶような当たり前のことなのに、過去の成果をコピーするばかりの世の中で、すっかり忘れられている。
本書は、新しい何かを創造する企業をどう立ち上げるかについて書かれた本だ。

 

 

 

ここから私が汲み取ったのは、誰かの敷いたレールの上を必死に競争した先に新しい何かがあるわけではないということである。勇気をもって人と違うことをして、0から1を立ち上げる。そこに独占市場・ブルーオーシャンがある。それでも人は競争をやめられないのはなぜか。その点に触れられているのが『嫌われる勇気』だった。

 

 

 「アドラー心理学」では「承認欲求」を否定している。「誰かに褒められたたい」、「誰かに勝ちたい」という欲求は際限のない欲望を生み、究極的に人を幸せにはしない。それよりも、「誰か(共同体)の役に立ちたい」という感覚に従って貢献していくことが幸せを手に入れる方法なのである。日本の学歴社会に始まる競争社会で、不幸になっている人をたくさん見ているなかで、この主張はとても腑に落ちた。そして私はここから「ナンパ」と「副業」を『ゼロ・トゥ・ワン』と『アドラー心理学』の文脈に置き直すことができた。さらに今年に入って、さらにその延長線上に「意志力」という概念と出会えた。

 

ロイ・バウマイスター(心理学者)は、意志力の科学の最重要キーマンだ。
「意志力=筋肉(意志力は筋肉のように疲労し、また鍛えることができる)」をはじめ、

・意志力の源泉は一つだけで、そのエネルギー量には限りがある。
・意志力をすぐ強くできる方法がある。
・大切なのは、いかに意志力を温存し、使わないようにできるかだ。
・頭のなかのサルを追い出す。
・計画を立てるだけで、実行しなくても効果がある。
・クリアな意思決定ができるタイミングがある。
・「絶対やめる」ではなく、「あとでやろう」と思うとやめられる。
・先延ばしをふせぐコツがある。
・インターネットを活用して、自己コントロールをラクに高める方法がある。
・一つうまくいけば、あらゆる面に及ぶ。

 

 結局、0から1を生み出される、人が敷いたレールの上にあえて乗らないためには、強い意志が必要なのだ。だから、頭で分かっていてもパワーがないと実践できない。そのための手法を教えてくれるのが意志力という概念だった。

 要は、満員電車に揺られて、怖い上司にノルマを課され、12時に牛丼屋の行列にならび炭水化物でお腹を満たし、睡魔と戦いながらアホなクライアントと何時間もMTGし、与えられた宿題でサービス残業し、帰宅したら一日が終わり、土日は家族のご機嫌取りに終わるような日常から抜け出すためのテクニックである。

 ということで、今年もしっかり人から嫌われて0から1を生み出していこうという所存であります。

卵と壁と、GAFAと私

年末年始、親族で集まると、みんながスマホをもってSNSをチェックしていた。

甥っ子と話すとサンタさんは忙しいのでクリスマスのプレゼントはAmazonが持ってきたそうだ。

 

GoogleAppleFacebookAmazon(4つまとめてGAFAと呼ばれる)の勢いを強く感じた年末年始だったので、そのことについてぼんやりと思いふけっていたら、村上春樹さんの「卵と壁」のスピーチを思い出した。(下に転載しておきます)

 

GoogleAppleFacebookAmazonをシステムであり「壁」だとしたとき、僕達個人は、「卵」になる。

 

私たちは皆、国家や民族や宗教を越えた、独立した人間という存在なのです。私たちは、“システム”と呼ばれる、高くて硬い壁に直面している壊れやすい卵です。誰がどう見ても、私たちが勝てる希望はありません。壁はあまりに高く、あまりに強く、そしてあまりにも冷たい。しかし、もし私たちが少しでも勝てる希望があるとすれば、それは皆が(自分も他人もが)持つ魂が、かけがえのない、とり替えることができないものであると信じ、そしてその魂を一つにあわせたときの暖かさによってもたらされるものであると信じています。

少し考えてみましょう。私たちは皆それぞれが、生きた魂を実体として持っているのです。“システム”はそれをこれっぽっちも持ってはいません。だから、“システム”が私たちを利用することを決して許してはならない、“システム”に意思を委ねてはならないのです。“システム”が私たちを創ったのではない、私たちが“システム”を創り出したのですから。

 

これを読むと、年末Web界隈を騒がせたWELQ問題とは、Googleというシステムに意志を委ねてしまった過ちだったのだな思った。

 

 

大きなトレンドとして、個人の価値観、ビジョン、生きる目的みたいな生暖かいものが、より一層重要になってくる予兆を感じています。個人としての洞察力と魅力を磨きましょう。

 

 

 

以下、2009年の村上春樹さんのエルサレム賞スピーチの翻訳と英語が紹介されており、重要だと思ったので転載させていただきます。

 

【全文版】卵と壁 ~村上春樹氏 エルサレム賞受賞式典スピーチ|青山の昼と千駄木の夜 ~Indiana(インディアナ)暮らし編

 

-常に卵の側に-  村上 春樹

私は今日小説家として、ここエルサレムの地に来ています。小説家とは、“嘘”を糸に紡いで作品にしていく人間です。

もちろん嘘をつくのは小説家だけではありません。知っての通り、政治家だって嘘をつきます。外交官だろうと、軍人であっても、あるいは車の販売員や大工であろうと、それぞれの場に応じた嘘をつくものです。しかし、小説家の嘘は他の職業と決定的に異なる点があります。小説家の嘘が道義に欠けるといって批判する人は誰もいません。むしろ小説家は、紡ぎだす嘘がより大きく巧妙であればあるほど、評論家や世間から賞賛されるものなのです。なぜでしょうか。

私の答えはこうです。小説家が巧妙な嘘をつく、言いかえると、小説家が真実を新たな場所に移しかえ、別の光をあて、フィクションを創り出すことによってこそ、真実はその姿を現すのではないかと。ほとんどの場合、真実を正確に原型のまま把握することは実質的に不可能です。そう考えるからこそ、私は真実を一度フィクションの世界へと置き換え、その後フィクションの世界から翻訳してくることによって、隠された場所に潜む真実をおびき寄せ、その尻尾を掴み取ろうとしているのです。そのためには、まずはじめに私たちの中にある真実がどこにあるのかを明らかにしなければなりません。これは良い嘘をつくためにはとても重要なことです。

しかしながら、今日は、私は嘘をつこうとは思っていないのです。私はできるだけ正直であろうと思っています。私が嘘をつかない日は一年のうちほんの数日しかないのですけれども。しかし、今日はそのうちの一日です。

そういうわけで、“本当のこと”をお話します。このエルサレム賞は受け取らないほうが良いのではないか、この地に来ないほうが良いのではないか、そう助言してくる人が少なからずいました。もしここに来れば私の本の不買運動を展開すると警告してくる人さえいました。

もちろんその理由は、ガザ地区で激しい戦闘があったからです。国連のレポートによると、1,000人以上の人々が封鎖されたガザの中で命を落としました。その多くは、子供や老人も含む非武装市民です。

授賞式の案内が届いてからずっと、私は自らに問いかけてきました。このタイミングでイスラエルの地を訪れ文学賞を受賞することがはたして適切だろうか、このような衝突下にあって、わたしが片方を支援するという印象をつくり出してしまうのではないか。圧倒的な軍事力を浴びせることを選択した国家政策を支持することになるのではないか、と。もちろん私はそのようなことを望んでいません。私はいかなる戦争も支持しませんし、いかなる国の支援もおこないません。付け加えれば、私の本が不買運動をおこされるのを見たいとも思いませんしね。

悩みぬいた末、しかしながら最終的に私はこの地に来ることにしたのです。決断した理由の一つは、あまりに多くの人がこの地にこないほうが良いと私に言ってきたからです。他の多くの小説家と同様、私は自分に言われることと全く反対のことをする傾向があります。「そこに行かないほうがいい」、「そんなことはしないほうがいい」と言われると、ましてや警告なんてされようものなら、私は「そこに行きたくなる」し、「それをしたくなる」のです。これはいうなれば小説家としての私の特性です。小説家というのは特殊な人種です。小説家は、自分の眼で見たり、あるいは手で触れたりした感覚無しには、何も信じることができないのです。

これが、私がここにきた理由です。私は欠席するよりもこの場所に来ることを選びました。何も見ないよりも自分の眼で見ることを選びました。そして沈黙でいるよりも話すことを選んだのです。

これは、私が政治的メッセージをこの場に持ってきた、ということではありません。もちろん善と悪を判断することは小説家には最も大事な役割の一つではあります。

しかし、その判断をどのような形で他に伝えるかということについては、それぞれの書き手に委ねられているのです。私自身は、それを現実を超えた物語に変換することを好みます。今日皆さんの前に立って政治的メッセージをお話するつもりがないというのは、そういう理由からです。

そのかわり、この場で極めて個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。これは私がフィクションを書く間、ずっと心に留めていることです。紙に書いて壁に貼るとか、そういったことではなく、私の心の奥に刻み付けていることがあるのです。それはこういうことです。

「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」

そう、壁がどんな正しかろうとも、その卵がどんな間違っていようとも、私の立ち位置は常に卵の側にあります。何が正しくて何が間違っているか、何かがそれを決めなければならないとしても、それはおそらく時間とか歴史とかいった類のものです。どんな理由があるにせよ、もし壁の側に立って書く作家がいたとしたら、その仕事にどんな価値があるというのでしょう。

この比喩の意味するところは何でしょうか。あるケースにおいては、それはあまりにも単純明快です。爆弾・戦車・ミサイル・白リン弾は高くて硬い壁である。卵はこれらに撃たれ、焼かれ、つぶされた、非戦闘市民である。これがこの比喩の意味するところの一つです。

しかしこれが全てではありません。もっと深い意味もあるのです。このように考えてみませんか。私たちは皆それぞれ、多かれ少なかれ、一つの卵であると。皆、薄くてもろい殻に覆われた、たった一つのかけがえのない魂(たましい)である、と。これは私にとっての“本当のこと”であり、皆さんにとっての“本当のこと”でもあります。そして私たちは、程度の多少はあるにせよ、皆高くて硬い壁に直面しているのです。この壁には名前があります。それは“システム”というのです。“システム”は私たちを守ってくれるものですが、しかし時にそれ自身が意思を持ち、私たちを殺し始め、また他者を殺さしめるのです。冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由は、たった一つしかありません。それは個が持つ魂の尊厳を表に引き上げ、そこに光を当てることです。小説における物語の目的は警鐘を鳴らすことにあります。糸が私たちの魂を絡めとり、おとしめることを防ぐために、“システム”に対しては常に光があたるようにしつづけなくてはならないのです。小説家の仕事は、物語を書くことによって、一人ひとりがそれぞれに持つ魂の特性を明らかにしようとすることに他ならないと、私は信じています。そのために、生と死の物語、愛の物語、あるいは多くの人が泣いたり、恐れおののいたり、笑い転げたりする物語を紡いできたのです。これが私が、来る日も来る日も、徹底的な深刻さで大真面目にフィクションを紡いでいる理由なのです。

私の父は昨年90歳で亡くなりました。父は教師を引退し、たまにパートタイムのお坊さんとして働いていました。父は学生だった時に、陸軍に招集され中国の戦場に送られました。戦後生まれの私は、毎朝朝食の前に、我が家の仏壇の前で父が長く深い祈りをささげているのを見ていました。あるとき私は父に、なぜそんなことをするのかと尋ねました。父は私に、あの戦争で亡くなった人のためにお祈りをしているのだと教えてくれました。

父は、敵も味方も関係ない、亡くなった全ての人のために祈っているのだ、と言いました。仏壇の前で正座している父の背中をじっと見つめるうちに、私は父の周りを漂っている“死の影”を感じた気がしたのです。

父が亡くなると同時に、私が決して伺い知ることのできなかった父の記憶も失われてしまいました。しかし、私の記憶の中にある、父の陰に潜む“死の存在”は、今なおそこにあるのです。これは、私が父から引き継いだ、ほんの小さな、しかし最も重要なことの一つです。

私が今日、皆さんに伝えたいと思っていることは、たった一つだけです。私たちは皆、国家や民族や宗教を越えた、独立した人間という存在なのです。私たちは、“システム”と呼ばれる、高くて硬い壁に直面している壊れやすい卵です。誰がどう見ても、私たちが勝てる希望はありません。壁はあまりに高く、あまりに強く、そしてあまりにも冷たい。しかし、もし私たちが少しでも勝てる希望があるとすれば、それは皆が(自分も他人もが)持つ魂が、かけがえのない、とり替えることができないものであると信じ、そしてその魂を一つにあわせたときの暖かさによってもたらされるものであると信じています。

少し考えてみましょう。私たちは皆それぞれが、生きた魂を実体として持っているのです。“システム”はそれをこれっぽっちも持ってはいません。だから、“システム”が私たちを利用することを決して許してはならない、“システム”に意思を委ねてはならないのです。“システム”が私たちを創ったのではない、私たちが“システム”を創り出したのですから。

以上が、私が皆さんにお話しようと決めた内容の全てです。

最後に、このエルサレム賞の受賞について、心から感謝申し上げたいと思います。また、私の本が世界中の多くの人々に読まれていることについても、同様に感謝申し上げます。そして今日、この場で皆さんにお話する機会を提供いただいたことに、お礼申し上げます。


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Always on the side of the egg
By Haruki Murakami

I have come to Jerusalem today as a novelist, which is to say as a professional spinner of lies.

Of course, novelists are not the only ones who tell lies. Politicians do it, too, as we all know. Diplomats and military men tell their own kinds of lies on occasion, as do used car salesmen, butchers and builders. The lies of novelists differ from others, however, in that no one criticizes the novelist as immoral for telling them. Indeed, the bigger and better his lies and the more ingeniously he creates them, the more he is likely to be praised by the public and the critics. Why should that be?

My answer would be this: Namely, that by telling skillful lies - which is to say, by making up fictions that appear to be true - the novelist can bring a truth out to a new location and shine a new light on it. In most cases, it is virtually impossible to grasp a truth in its original form and depict it accurately. This is why we try to grab its tail by luring the truth from its hiding place, transferring it to a fictional location, and replacing it with a fictional form. In order to accomplish this, however, we first have to clarify where the truth lies within us. This is an important qualification for making up good lies. Today, however, I have no intention of lying. I will try to be as honest as I can. There are a few days in the year when I do not engage in telling lies, and today happens to be one of them.

So let me tell you the truth. A fair number of people advised me not to come here to accept the Jerusalem Prize. Some even warned me they would instigate a boycott of my books if I came.

The reason for this, of course, was the fierce battle that was raging in Gaza. The UN reported that more than a thousand people had lost their lives in the blockaded Gaza City, many of them unarmed citizens - children and old people.

Any number of times after receiving notice of the award, I asked myself whether traveling to Israel at a time like this and accepting a literary prize was the proper thing to do, whether this would create the impression that I supported one side in the conflict, that I endorsed the policies of a nation that chose to unleash its overwhelming military power. This is an impression, of course, that I would not wish to give. I do not approve of any war, and I do not support any nation. Neither, of course, do I wish to see my books subjected to a boycott.

Finally, however, after careful consideration, I made up my mind to come here. One reason for my decision was that all too many people advised me not to do it. Perhaps, like many other novelists, I tend to do the exact opposite of what I am told. If people are telling me - and especially if they are warning me - "don't go there," "don't do that," I tend to want to "go there" and "do that." It's in my nature, you might say, as a novelist. Novelists are a special breed. They cannot genuinely trust anything they have not seen with their own eyes or touched with their own hands.

And that is why I am here. I chose to come here rather than stay away. I chose to see for myself rather than not to see. I chose to speak to you rather than to say nothing.

This is not to say that I am here to deliver a political message. To make judgments about right and wrong is one of the novelist's most important duties, of course.

It is left to each writer, however, to decide upon the form in which he or she will convey those judgments to others. I myself prefer to transform them into stories - stories that tend toward the surreal. Which is why I do not intend to stand before you today delivering a direct political message.

Please do, however, allow me to deliver one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: Rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:

"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."

Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg. Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will decide. If there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?

What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high, solid wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.

This is not all, though. It carries a deeper meaning. Think of it this way. Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: It is The System. The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others - coldly, efficiently, systematically.

I have only one reason to write novels, and that is to bring the dignity of the individual soul to the surface and shine a light upon it. The purpose of a story is to sound an alarm, to keep a light trained on The System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them. I fully believe it is the novelist's job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories - stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.

My father died last year at the age of 90. He was a retired teacher and a part-time Buddhist priest. When he was in graduate school, he was drafted into the army and sent to fight in China. As a child born after the war, I used to see him every morning before breakfast offering up long, deeply-felt prayers at the Buddhist altar in our house. One time I asked him why he did this, and he told me he was praying for the people who had died in the war.

He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike. Staring at his back as he knelt at the altar, I seemed to feel the shadow of death hovering around him.

My father died, and with him he took his memories, memories that I can never know. But the presence of death that lurked about him remains in my own memory. It is one of the few things I carry on from him, and one of the most important.

I have only one thing I hope to convey to you today. We are all human beings, individuals transcending nationality and race and religion, fragile eggs faced with a solid wall called The System. To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong - and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others' souls and from the warmth we gain by joining souls together.

Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow The System to exploit us. We must not allow The System to take on a life of its own. The System did not make us: We made The System.

That is all I have to say to you.

I am grateful to have been awarded the Jerusalem Prize. I am grateful that my books are being read by people in many parts of the world. And I am glad to have had the opportunity to speak to you here today.

 

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年末年始におすすめの「年記」

普段、私は日記は書いていないのですが、年末年始にその年を振り返る「年記」的なものを書いています。かれこれ10年間くらい。1月から12月までをざっくり振り返りながら、その時期、仕事で、プライベートでどんな気持ちだったかを赤裸々に綴ります。あくまで自分用なので、公開はしないですが、そのぶん長期的に保存ができる媒体に記録しておきます。自分の場合は、google doc上に残していますね。

これをやると何がいいかと言えば、ちょうどいい分量で後から客観的に振り返れるんです。日記を毎日つけたとしても、それを総体として振り返るのは実は相当時間がかかります。「年記」は一年を800字〜2000字くらいの1記事で書いちゃうので、30分あれば10年分を振り返れます。

で、振り返ってわかるのは、まず「自分は同じ思考パターンをしてるな」ということです。自分の場合は「仕事でリーダーシップをとれなかったから、来年は意識的にリーダーになっていく」「女性関係に時間をさくことはやめる」みたいなことを毎年書いています(笑)。客観的に自分の思考パターンに気づけるというのは、同じ罠に引っかかりにくくなるということです。「なぜ毎年同じようなことを課題に捉えているのか」という一つレイヤーの高い問いを設定できるので、その課題に対して、新しいアプローチを試せる可能性が高まります。

あと、「年記」を書くと面白いのは、たいてい年のある瞬間に、ガラッと流れが変わる瞬間が来ることが分かることです。それは予想しなかった環境の変化・意識の変化が大きいです。ある年は異動で、ある年は恋人で、ある年は人との出会いで、ガラッと変わります。そしてその前後の文脈を分析してみると、自分自身にそれを受け入れる側面があったことが分かります。たとえば、「今の仕事にどこか飽きているところがあるが故に、外部からのオファーに積極的に応じた」みたいな因果関係が振り返ったときにわかるわけですね。「年記」を長いこと書いていると、そういう風に自分の成長パターンも把握できます。

「一年の振り返り・来年の展望」で終わるのではなく、10年単位で続ける前提で「年記」を書くことで、ある程度自分の長期的意志をコントロールできる気がします。そこらへんの占いに頼るよりも確実に。私の場合は、2016年は非常に主体的に結果を出し続けられた年だと総括しました。そして、その次に来るステージは「飽き」と「環境変化」だとパターン化されています。で、失敗するパターンは、「変化に意気込みすぎること」だという分析もあるので、これまでのものを大切にしながら、徐々に変化にシフトしていく戦略を2017年は取ろうと思っています。

それではみなさん2016年おつかれさまでした。2017年もよろしくお願いします。